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隘路

社畜による情けない日々

文系就職活動におけるコミュ力・コミュ障

5月に入り、自分の住んでいる地方都市でも、リクルートスーツと思しき若々しい姿をよく見かけるようになりました。

 

自分は10月に説明会解禁、4月から面接開始(実際は1月頃から面接やってて2月には決まっている)というスケジュールだった頃に一般的な文系の就職活動をしたのですが、30社近く受けて全部落ちました

エントリーシートで半分以上落ちて、一次面接でさらに半分落ちて、最終面接にたどり着いたのは1社のみ。そこも落ちました。

 

 

リクルーター方式の企業もありましたが、どこも一度しか会えず(初回の面談で見込み無しと判断されたのでしょう)、本面接には一社も呼ばれませんでした。

 

その後なんとか法律事務所のパラリーガル募集を見つけて、そちらに滑り込めたのですが、もし見つからなかったら留年するつもりで、単位数を調整していました。

 

結果から見て明らかですが、自分は典型的なコミュ障です。

 

就職活動開始から断念まで約1年間あったのですが、結局自分の何が悪いのかわからないまま、ただ敬遠され続けることしかできませんでした。

具体的に何が悪いのかわからないのですが、大企業から田舎の地銀、町工場プラスアルファの地場メーカーまで幅広く落ち続けたということは、社会人として決定的な何かが欠けていると判断されたのでしょう。

 

これが何なのか、実際に数年間働いてみてようやくわかってきました。

 

中身ではなく…

端的に言うと、安定して丁寧に論理を展開する能力です。

 

パターン1

筋トレの方法をもっと詳しく教育すべき。

筋肉があると心身ともに健康でいられるから。

 

 

 

 

パターン2

筋トレの方法をもっと詳しく教育すべき。

筋肉があると、基礎代謝が上がり太りにくくなり、いろいろな病気の予防につながる。

また、筋肉があれば、精神的に追い詰められても、「やろうと思えば全てを破壊できるんだよな」と開き直ることができ、強いストレスを回避できる。

以上の理由から、筋肉があることで心身ともに健康でいられる。

普段からスポーツをしている人でも、競技によって得られる筋肉は偏っており、上記の健康上のメリットを享受するには、 別途筋肉を鍛える目的での運動が必要であるが、ボディビルのような特定の競技を除き、筋肉そのものを鍛える方法は指導されることが少ない。

従って、筋トレが教育というものを別立てで行う必要がある。

 

 

 

パターン1のほうは、家族や友人相手であればいたって自然だと思います。「どうして?」と相手に聞き返す余地も与えており、会話のキャッチボールが始まるでしょう。

しかし、初対面の人間が相手で、しかも会話をするつもりがない相手であれば、全く意味を為しません。相手はきっと納得してくれないでしょう。

 

一方でパターン2は、くどいですが、誰が相手であろうとパターン1よりは納得させられる可能性が高いでしょう。

 

仕事をしていくうえで必要なコミュニケーションは、パターン2のほうが多いです。

大きな会社になればなるほど、社内・社外ともに特定の人間ではなく、不特定多数とコミュニケーションを取る必要があるため、パターン2が求められるでしょう。

 

エントリーシートから最終面接まで、どんな話題を振られてもパターン2のコミュニケーション、つまりたいていの人間が理解できるくらい丁寧な論理展開が安定してできること、これが文系就職活動でまず最初に求められる能力だろうと、自分は結論付けました。

 

これが自分には決定的に欠落しています。

エントリーシートやブログの記事のようにじっくり推敲する時間があれば、ある程度は作れるようになってきたと思いますが、会話では無理です。付き合いの浅い相手だと、仕事であれ雑談であれ怪訝な顔をされて「えっ?」と聞き返されてばかりです。

 

もちろん、丁寧すぎてもよくありません。しかし、こと就職活動においては、(少なくとも自分の観測範囲内では)飛躍するよりも丁寧すぎてくどいほうが圧倒的にマシと判断されるようです。

くどいほうは指導すれば治せるけど、飛躍するほうは教育に時間もコストもかかるし、何より治せない場合もありうると判断しているのだろうと、自分は推測しています。

 

気づいたきっかけ

パラリーガルとして働いているとき、プロの法律家と、相談に来るお客様のコミュニケーションを見ていて、気がつきました。

法律相談に来るお客様の話は、いろいろ事情が込み入っていたり、感情的にもつれがあったり、申し訳ありませんが非常にわかりにくいです。超展開が相次ぎます。

 

わかりにくい話を解きほぐしていく手法のひとつが、論理展開の細分化でした。お客様と受け手の間で認識を共有できるレベルまで、話のステップを細かく落とし込んでいくのです。

こんな場面を何度も見ているうちに、法律問題に限らずどんな話題であっても、論理の飛躍が相互理解の妨げになっていること、飛躍の間に細かいステップを設けて橋渡ししてやることが相互理解につながることに気がつきました。

 

どうすればよいのか

飛躍せず、かつくどすぎない論理展開を身につけるには、たくさんのコミュニティに所属して人間関係の幅を広げるほかないと思います。

特定のコミュニティだけに浸っていると、そのコミュニティ特有のルールが染み込んでしまい、コミュニティ外の人間からしては非常識な超展開が当たり前になってしまいます。

加えてくどさの匙加減は、初対面の相手とのコミュニケーションを何度も経験していくことで、徐々に学び取っていくしかないと思います。

 

さらに就職活動においては、社畜という人種のルールに少しでも慣れておかなければいけません。

このルールは、正直自分にもよくわかりません。仕事で初対面の人間と接すると大抵「変わってますね」と言われるので、いまだに身につけられていないのだと思います。

 

「身につける」「学び取る」と書きましたが、そもそもこの能力は意図的に習得するものではなく、遅くとも大学卒業までには自然と身につくほうが多数派なのだと思います。

自分ような不器用な人間に限り、欠落に気づかないといけないし、意図的に努力しないといけないのでしょう。

 

お祈りラッシュの渦中では、話す中身そのものや、ひいては自分自身の人間的魅力が無いのだと思っていましたが、今ではそれよりも話の進め方、論理展開の匙加減が駄目だったのだろうと思うようになりました。

前掲の例で言えば、筋トレ教育の有用性自体はどうでもよく、一つの説として筋が通っていて、筋が通っていることを相手に理解させるだけの配慮ができればよいのです。

 

この記事も極力くどく、論理の飛躍が無いように書いたつもりですが、どうなんでしょうか。2500字を超える記事は初めてですが、少しでも意図が伝わればよいのですが……