『蟹工船』を読んだ小売業社畜が不覚にも頷いてしまったシーン
平日は社会の流れに合わせて通常勤務、暦上の休日はもっと忙しい。
休日というものが存在しないのが、小売業の宿命です。
この三連休は近場消費の絶好のチャンス(夏休み明けなので遠出する人は少ない)なので、万全の準備と人員体制で臨んだのですが……まさかの台風。モノ的にも人件費的にも、相当のロスが日本中で出ていることでしょう……
自分も三連勤の予定だったのですが、突如暇を言い渡されました。
予定らしい予定を入れることも今更できないので、前々から読みたかった『蟹工船』を一気読みしました。
現代の蟹工船(言ってみたかっただけ)
作中の労働環境は「凄惨たるもの」ほかならず、自分の経験と比較できる次元のものではないのですが、それでも根底にある思想には共通したものを多々感じました。
小売業は資本家が用意したハコの中で労働者が汗をかき利益を生む業種で、基本的には蟹工船と同じです。運営のあり方によっては、容易に地獄になりえることを痛感しました。
個人的に腑に落ちたシーン集
作中のうち、特に自分が腑に落ちたシーンを以下に列挙しておきます。
ネタバレ回避のため、文脈はあえて書きません。
人間の身体には、どの位の限度があるか、然しそれは当の本人よりも監督の方が、よく知っていた。――仕事が終って、丸太棒のように
棚 の中に横倒れに倒れると、「期せずして」う、う――、うめいた。
小売業で上に立つ人間は、概して人を使うが上手です。人間関係をうまく回しながら、利益が上がるようにモチベーションと体力・気力を管理できます。
この技量のために欠かせない知識のひとつに、「人間の限度」があります。
蛸は自分が生きて行くためには自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか! そこでは誰をも
憚 らない「原始的」な搾取が出来た。「儲 け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りかえってきた。しかも、そして、その事を巧みに「国家的」富源の開発ということに結びつけて、マンマと合理化していた。抜目がなかった。「国家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺されて」行った。
少し前に流行った「働き甲斐」搾取というやつでしょう。
「いいか、
此処 へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。それに何時 だって蟹が取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だからって、それでピッタリやめられたら、飛んでもないことになるんだ。――仕事の性質 が異 うんだ。いいか、その代り蟹が採れない時は、お前達を勿体ない程ブラブラさせておくんだ」監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことを云った。「露助はな、魚が何んぼ眼の前で群化 てきても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。んだから――んな心掛けだから露西亜 の国がああなったんだ。日本男児の断じて真似 てならないことだ!」
何に云ってるんだ、ペテン野郎! そう思って聞いていないものもあった。然し大部分は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。
蟹が取れる→お客が来る、に置き換えて(表現は柔らかいですが)頻繁に同じようなことを口にしています。
自分たちの間では「正しい残業」という言葉を使っています。
蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の
鱶 のように、白い歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭 けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一艘 取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語でハッキリそういった。
備品を大事にするあまり人間が怪我をする。よくある話です。
「俺達の本当の血と肉を
搾 り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
皆そんな気持で作った。